建学の精神と使命・目的

長岡大学の建学の精神

長岡大学は平成13(2001)年4月に開学した。本学を設置する学校法人中越学園の創始者である斎藤由松先生の教育観と本学の前身である長岡短期大学の建学の精神を継承して、次の2つを本学の建学の精神としている。

<長岡大学の建学の精神>

幅広い職業人としての人づくりと実学実践教育の推進
地域社会に貢献し得る人材の育成

学校法人中越学園の起源は、明治38(1905)年に創設された「斎藤女学館」にさかのぼる。創設者の斎藤由松先生は女子教育をベースにしながらも、「実際生活を適切ならしめる、所謂、役に立つ人の養成」をめざし、人格形成と実学指向を極めて重視した教育を行った。
本学は、21世紀の現在においても、この斎藤先生の教育観である「幅広い職業人としての人づくりと実学実践教育の推進」を歴史的に継承し、大学教育に活かすことが不可欠であると確信している。さらに本学は、前身である長岡短期大学の建学の精神である「地域社会に貢献し得る人材の育成」を継承し、地域に開かれた大学としての一層の充実、発展を図ることとした。

長岡大学・学部等の使命・目的

<長岡大学の使命・目的>
長岡大学は、地域社会の中核となる、地域に貢献できる人材を育成することをその使命とする。
地域社会で生活していくためには、まず社会的・職業的に自立することが重要であり、しかもそれは他の人に容易に代替が効く「部品」ではなく、個性と人格を持った存在として認められるようになることが望まれている。本学においては、職業人として自立するための各種技能と、社会人として求められる一般教養など基礎的能力を併せて教育し、地域社会の要請に応えようとするものである。

<経済経営学部・学科の使命・目的>
経済学と経営学の基礎およびその学際領域を実践的に学ぶことで、持続可能な地域社会の実現に向けて自ら行動することのできる社会人基礎力と職業人として通用する専門的知識・技能を涵養する。

<教育ビジョン>
ビジネスを発展させる能力と人間力を鍛えるとともに、「毎日の大学生活で充実感を、能力アップを確かめて達成感を、卒業のとき4年間を振り返って満足感を」実感させることを目指す。

<参考> 斎藤由松先生の教育観

1 斎藤女学館設立当初の斎藤由松先生の考え

斎藤由松斎藤由松先生が私立学校を興そうと決意したのは、「自己の信じる教育をするためには、自分の学校を持たねばならぬ(斎藤先生の文章、以下同様)」という信条と、新潟県内でとくに不足している女子教員を養成すべきだという強い思いがあったからである。

その後、斎藤先生は増加する女学校志願者に対して女学校が不足している状況と、女学校卒業者が「実際生活に当って案外役に立たす、徒に高遠なる理想に馳せて俄かに貴族気取りとなり、生活が向上して無駄が多く、経済上不利であるとの非難を受けるものが少なかざる有様」を憂いて、「体裁よりは実質、理論よりは実行、今日学び得たる学理は明日の実地に移し、真面目に働く家庭婦人あるいは職業婦人を養成する」 ことを目的とする中等職業学校へと発展させていった。

斎藤先生は 「教育はその人の前途の目的によりそれぞれ同一でないから…学者や先覚者となることも固より必要だが…すべての男女が自己の境遇も才能も顧みず同一の目的を持って進み・・・実際生活を離れ殆ど虚栄の為に学問をするというに至っては、徒に高等遊民を多からしめ、国家衰退の原因をなす」と当時の中等教育についての一般の風潮を嘆いている。斎藤女学館では、「実際生活に適切ならしめ、所謂役に立つ人を養成するよう、課程その他に自由裁量の余地を多からしめよう」と企画したとある。その後、実業学校が盛んになるのを見て、先生は「教育の趨勢が漸次吾輩の主張に合致してきたことを大いに悦ぶ」と先見の明を誇っている。

先生は戊辰詔書にある「勤倹を勧め華を去り実に就くの訓に感激し、自らの微力を揣らず之に当る」ことを教育の理念とした。大正4(1915)年制定の長岡高等家政女学校校訓は次の通り、第1に「華を去り実に就け」を掲げている。4項、5項は職業人としての教育を意識したものと考えられる。

1.華を去り実に就け
2.温良貞淑を旨とすべし
3.整頓清潔の習慣を養成せよ
4.自治の精神を養え
5.勤労を厭うことなかれ

2 小林虎三郎、「米百俵の精神」との関係

斎藤由松先生が直接影響を受けたとする証拠はないが、虎三郎の教育理念とは「人づくりと実学」という点では共通している。ただし、斎藤先生が目的としたのは平均的な職業人の育成であるに対して、虎三郎は社会のリーダーとしての人材の育成に焦点を当てているところに違いがある。
斎藤先生の教育理念は戊申詔書の「去華就実」に強い影響を受けて形作られたが、この言葉の出どころが小林虎三郎である可能性は高い。
こうしたことから、建学の精神は「米百俵の精神」と相通じるとすることはできる。